Twitter字数足りない

早起き苦手な大学3年生のブログ

再・自己紹介

また少しずつ更新しようと思う。誰か読んでくれますように。

前期の授業ももう折り返し。オンライン授業が続く中、そろそろ卒論について具体的に考えて決めていかなきゃいけない時期になった。

私は今、中国美術史と西洋近代美術史を履修している。今年の秋に、どちらかを選択して卒論を書かないといけない。この二つの科目、時代も場所も全然違う。なんでこうなったんだろうか。

大学に入るまでは美術史の存在すら知らなかった。たまたま入った大学、学科で、なんとなく美術史の勉強を始めた。でもいつのまにか楽しくなってきて、西洋近代美術史が一番面白いと思うようになった。二番目は日本近代か西洋美術。西洋東洋問わず近代という時代が好き。ミケランジェロが好き。バロックロマン主義もポスト印象派も好き。最近はセザンヌやホイッスラー、マティスカンディンスキーピカソポロックが好き。

中国美術は——全然好きじゃない。1年生の後期に単位を落としてしまって、2年生では一つも履修しなかったくらい、嫌い。中国絵画の見方がわからなくて、全部同じ絵に見えた。先生はとっても楽しそうに絵の話をしていたけど、私は内心、中国美術であんなにうきうきできるなんて……と思っていた。だから、3年生で中国美術をやるなんて、考えてもみなかった。

3年生の演習科目の履修には選考がある。2年生の1月に希望調査があって、2月の末に発表される。どこに入りたいか三つ希望を出し、振り分けられる。履修できる演習は二つまで。基本的に成績順で決まっていく。成績がよくないから第一希望は通らないだろうけど、第二第三希望の日本近代と西洋になるだろうなあと、甘く考えていた。そしたら、「人数調整の結果、あなたが選んだ三つの演習のうち、このままでは一つしか履修できない状況です。そのため、仏教美術か中国美術のどちらかを選んでください」と学科の助手さんからメールが来た。ああそんなに私は成績悪いのかと少しがっかりしたけど、ブルーな気持ちはすぐ忘れて「仏教で!」と即答した。

2月末の振り分け発表まで、私は仏教が履修できる、やっと所属が決まると一安心し、わくわくしていた。仏教彫刻にもほんのり興味があったし、仏教の先生は優しいからよかったなあと思っていた。

それなのに中国美術史にぶっ飛ばされてしまった。どんだけ人気ないんだよ中国美術。後でわかったけど、西洋近代は先生の計らいによって第一希望者は全員履修できたらしい。

最初はすごい嫌だった。西洋近代とれたのはラッキーだったけど中国美術史なんてやりたくない。履修するのやめようかと思ったけど、卒論ゼミにも選考がある。もし西洋近代ゼミに入れなかったら——その確率は非常に高い——留年の二文字が頭に浮かんだ。

嫌々学び直した中国美術だったけど、なんだか楽しくなってきた。私と同じでみんな中国美術が嫌だっていう人ばかりで、先生もそれをよくわかっているから、雰囲気はゆるい。ゆるいからこそ自由に意見が言えて、のびのびできる感じがする。それに、以前はわけのわからなかった山水画の面白さが、なんとなくつかめてきたような気もする。作品を直接見たら、もっと好きになれそう。東博に行きたい。

西洋近代は相変わらず楽しい。でもレポート上手く書けなくて打ちのめされてる。周りが優秀で凹む。それに、みんな成績を気にしているせいか、雰囲気がちょっとピリついているように思える。

やっぱり、西洋近代に進むのは成績的に難しい。どうあがいても中国美術。けど、仕方なく中国美術に行くんじゃなくて、ちゃんと好きになって卒論を書きたい。いやもう好きになりつつあるし、中国美術が第一希望になりそう。ああでも西洋近代も面白い……でも西洋近代の先生に「誰で卒論描きたいの?」って聞かれてすぐ答えられなかった。多分、先生の授業が面白いだけで、本当はそこまで好きではないんだと思う。ふんわり好きってだけで。

それに私は成績が悪いくせに、ゼミがどうなるかもよくわからないのに大学院に行きたいと思っている。前はぼんやりした希望だったけど、今ははっきり進学したいと考えている。ディスクリプション(何がどのように描かれているのか記述し考察すること)が面白くて、ただそれを続けていたいだけ。今年は4月の上旬だけ対面授業があって、やっぱり私は美術史をもっとやりたいんだ、楽しいなって気づいた。2年生はまるまる一年コロナで学校に行けなくて、怠惰な生活を送り、美術史への情熱を失いかけてたけど、再び火がついた。

生まれてからずっと景気はよくないし、災害はたくさん起きる。世の中先行き不透明すぎて、将来安心・安全・安定した職業に就かなければと、以前は自分に呪いをかけていた。でも、去年身内の不幸があり、人生ってたった一度しかないんだとやっと実感できた。コロナ禍で行動に制限がかかる分、限りある人生をもっと自己実現のために使いたいと、ますます思うようになった。甘ちゃんだけど、好きになってきたことをもっと続けたい。

そういうわけで今に至る。

卒論、すごく悩んでいるけど、とにかく自分の心が動いた作品を卒論に取り上げようと思う。こういうエモーショナルな動機はよくないのかもしれない。でも、その作品が好きじゃないとそもそも書けないよね。

いい選択ができるように頑張らねば。

書く余裕

 

書く余裕がない。

ブログ書きたいけど書けない。私の身の周りでも、悲しいことがここ最近多くて、落ち着かない。

あと課題が忙しい。

書きたいときに書くのが一番。趣味なんだから、と思う。

 

書くことは好き。なんかレポート書くの楽しくて、課題をやるだけで"物書き欲"が満たされてるのかも。

 

自分を取り戻した話

 

私には自分だけの世界がないって前に書いたけど、私って自分を失ったことあったよなあと思い出した。

 

私って昔から人に左右されやすくて、だから元々確固たる自分みたいなものがあんまりない。

はっきりしてるのは、のんびりしててバカで不器用で傷つきやすいのが、自然体の自分だということ。

それが「私」なんだと思う。

これは自覚しているし他人にもよく言われる。

 

小さい頃は「かわいいかわいい」と言われて育った。お世辞ではなく、事実私はとてもかわいい子どもだった。おもちゃのイヤリングをつけ、鏡に向かっておすましポーズをするのが日課だった。ごく普通の典型的な女の子だった。ぼんやりしている子だった。

 

けど小学校高学年あたりから、当時の友人の影響もあってプライドが高くなった。見た目も友人に合わせて髪を短く切ってしまった。ショートカットみたいなかわいい髪型じゃなくて、もっと男の子っぽいの。小さい頃は毎日履いていたスカートもやめた。

その子は男の子に負けたくないって気持ちの強い子で、アホな男の子のことはかなり見下している子だった。

私もその子と同じように男の子をバカにしていた。

なんであの子に合わせてしまったんだろう?

あの子は上手くいってたけど、私は上手くいかなかった。私はあの子より運動も勉強もできなかった。あの子の家はうちよりお金があって、それもとても羨ましかった。あの子は私より友達が多かった。先生からも好かれていた。何もかも敵わなかった。

あの頃、私はあの子になりたかったのだと思う。だから真似したのだ。今思うと安直すぎる。

 

私は、元々は将来の夢はお嫁さんみたいな、そういう子どもだった。

あの子と一緒にいてとてもいい刺激になった。進学して自分の力で仕事をつかむんだという向上心は、彼女から教わったようなものだ。感謝している。

でも、少し居心地が悪かった。あの子になりたいから色々真似していたわけだけど、そのうち、あの子と同じにしないと仲間外れにされるのではないかと危惧するようになった。実際、私は仲間外れになった。仲良しだった人に精神的に無視されることはつらかった。

私は一人になるのが嫌で、自分を偽るようになった。

その後、あの子は中学受験をして、私たちは別々の学校に進学した。それ以来彼女と会っていない。

 

中学に入ってからは、少しでも通信簿にいいことを書いてもらおうと、私は必死だった。

先生は、いわゆる私みたいないい子ちゃんたちに「できるやつができないやつに呼びかけしろ」と指導した。私は先生の期待に応えようと頑張った(今思えば、なぜ?)。

そしたらクラスメートに「女のくせに出しゃばるな」と言われた。

私は女だからいけないんだと思って、男っぽくなろうとした。女は劣ってるんだと考えるようになった。髪をもっと短くした。見た目を気にしなくなり、小さい頃のかわいかった面影は無くなった。言葉遣いは周りの男の子の真似をした。同級生の男の子は嫌いだった。けどああいう男の子みたいに、見てくれだけでも強くならないと、この学校でやっていけないと思った。

 

私がいじめられた理由は、私が点数稼ぎのいい子ちゃんで、中身がからっぽだったからだと思う。私はとっても嫌なやつだった。わかってる。けどしんどかったよ。

 

一番つらくて泣いたのは、先生の板書が間違っていることを私が指摘したら、みんなに責められたことだ。

先生は「完璧」の「璧」の字を「壁」と書いた。(今思えばとてもおせっかいだが)私はみんながノートに間違って書かないように「先生その字間違えてますよ」と言った。そしたら、みんなが「先生は間違ってないよ」「適当なこと言うんじゃねえよ」「また出しゃばって」などと言った。

先生は「"完璧"と"完壁"どっちが合っているか、合っていると思う方にみんな手を挙げて」と言った。

私だけが「璧」に手を挙げて、みんな「壁」に手を挙げた。

「ほら、やっぱりお前が間違ってる」と誰かが言ったのが聞こえた。

私はそのときいつも持ち歩いていた新明解国語辞典で「完璧」という言葉を引きながら、声を殺して泣いた。

私は完璧主義者だった。勉強して完璧な人間になりたかった。小学校のときのあの子のように。それなのに、私は正しいことを訴えたのに、私の意見は大勢の人に無視された。

後で先生に謝られたが、真剣に謝られたために、余計惨めだった。

「死ね」「キモい」「ウザい」「ブス」「デブ」

中学時代、がきんちょが思いつくような悪口は一通り言われた。言われて悲しかった。でも、なによりもこの"完璧事件"で言われた言葉がきつかった。「私」が踏みにじられたような気分がした。

私はこの一件で、自分が自分であることをやめたくなった。私という存在が悪なんだと。私だからダメなんだと。男になりたいとも思っていたけど、男に生まれていたらさらにいじめられていたかもしれないなと悟った。

もう、他人になりたかった。

 

女っぽくいることも男っぽくいることもつらかった。なぜなら、あの頃の私のジェンダー観はめちゃくちゃ偏っていたからだ。変に自分を型にはめようとしてて、最悪なことに男女どちらの性に対してもいいイメージを持っていなかった。

というか、人間そのものが嫌いだった。不信感しかなかった。

(今もこの人間への嫌悪感は心の中にあるから、とても悲しい)

 

私はおかしな道化を進んで演じるようになった。道化でいれば、どんなにひどいことを言われてもつらく感じない。自然体の自分でいることは恐ろしく、もはや元の自分に戻れなかった。いや元に戻ろうと思っても戻れなかった。自分が本来どういった人間だったのか、わからなくなり、忘れてしまったようだった。

 

でも、だんだん、自分を偽るのは心のどこかでしんどくなってしまって、詳しくは書けない(書きたくない)が、その反動で学校でないところでは自分が未成年の女の子であることを強調してそれをウリにしていた。学校では男の子にも女の子にもモテなくて、家でも親と上手くいっていない、そんなときに知らないおっさんが私のことをちやほやしてくれるのがたまらなくうれしかった。おっさんは私のことを愛しているのだと信じていた。あのときの私は、自分は誰からも必要とされていないと感じていた。だから、見ず知らずのおっさんにすがってしまったのだ。

最初は優しかったおっさんも、だんだん要求がエスカレートしてきて、私は怖くなってしまった。それで連絡を取るのはやめた。あのおっさん、私じゃなくて誰でもよかったんだなと気づいた。気づくのがあまりにも遅すぎた。これがのちのちになってデジタルタトゥーみたいになってしまったのだった。

幸いなことに、私はおっさんに一度も会っていない。だが、私のやったことは一生消えない。さみしさを埋めるためと言ってしまえば聞こえはいいが、それは行いを正当化しているだけだ。私は今でも悔やんでいる。なんてアホなことをしたんだろうと。

 

おっさんに大切にされなかった私は、いよいよ生きている価値などないと早まった考えに至った。

 

しばらくして、私が双極性障害を発症しているとわかった。

ますます自分がわからなくなってしまった。躁の自分と鬱の自分と元気なときの自分があまりにも違いすぎて、しかもあの頃は元気なときのノーマルな自分がどんなのかわかんなくてぐちゃぐちゃで、わけがわからなかった。

そのうち躁か鬱かどっちかの繰り返しになって、へんちくりんだけど一応元気な自分がめっきり登場しなくなった。

「私」が本当にどこかへいなくなってしまった。

どれが病気によって引き起こされた言動だったのか?ここまで来るといよいよわからない。

全部病気のせいにしたい自分と、そうすべきではないとする自分がいた。

 

親から「お前は病気なんだから」と、行動を制限した方がいいと言われるようになった。

 

あの頃の私は、女であるのが嫌だったし、こんな価値のない自分はいらないと思っていたし、けど病気のせいで何かを諦めるのは嫌だった。自分は劣っているために人に嫌われるから、なんとかして這い上がらなければならないと思っていた。尾崎豊の『シェリー』を毎日聴いて泣いた。

中学のとき、勉強だけは頑張った。

今思えば全然頑張りきれてなかったけど、あのときが今までの人生の中で一番勉強したんじゃないかなあ…?

 

勉強して、自分ではない何者かになりたかった。

 

努力が実を結び、高校に入学した。

その頃には、私は自分とは一体なんなのかわからなくなっていた。

のんびりしててバカで不器用で傷つきやすいのが本来の私なのに、いつも無理していた。向いていないというか、自分にはできないことばかりやろうとしていた。全て失敗した。

プライドと目標は東京スカイツリー並みにぐんぐんと高かった。いつのまにか、私は努力しなくなっていた。特に勉強は全くしなかった。理想と現実はかなりかけ離れたものになっていった。

 

髪は相変わらず短かった。おしゃれはしなかった。いや、できなかった。どうしたらいいのか、方法がわからなかった。

本当はかわいくおしゃれがしたかった。でも、私にはそんなの似合わないし、おしゃれなんてしても意味ないと思っていた。

おしゃれしてイケてる女の子は見た目ばかり気にするバカだと軽蔑していた。それは嫉妬なのだ。自分がおしゃれできないから、どう頑張ってもイケてる女子になれないから、羨ましくて妬ましかった。

 

男の子と仲良く話す女の子が羨ましかった。同性の女の子とも私は上手く話ができなかった。いつも変な空気になる。そのたびに私は汗が手や脇からふき出て、体が震えてしまう。社会に出てやっていけないのではないかと本気で不安になった。

(最近は目上の人と話すときこうなってしまってとても困る)

 

頭も悪い運動もできない顔もまずい…のび太みたいだった。でものび太は、性格は悪くない。のび太には友達がたくさんいる。私は性格までひどかった。のび太みたいにいいやつじゃない。友達も少ない。今もあまり性格はいいとは言えないけど、当時はもっとすさんでいて、人をとことん敵視して見下していた。

 

自分を取り戻すには時間がかかった。

人に優しくしてもらったおかげで、なんとか子どもの頃のような自然体の自分に戻ることができた。

親しい人と、互いの存在を大切にし合うのが最良の薬だった。

気の知れた相手の前では、自分を作る必要はない。大地を覆いかぶさって積もった雪が、太陽の熱で解かされ、次第に地面が顔を出すように、親しい人と一緒に過ごすだけで自然と元の自分に戻っていく。

 

今は、なんというか、開き直って生きている。私は人よりぶきっちょで頭悪いから、ちょっとできないくらいで気に病むことはない。友達が少なくたっていいじゃないか。そもそも友達たくさんほしいか?大勢は苦手じゃん。

野心はあるけど、人生はなるようにしかならない。今までだってそうだったじゃないか。転がり続けて辿り着いたこんなとこで一生懸命頑張ったっていいじゃないか。まっすぐ一直線に進まなくても。

逃げていい。我慢するより自分らしく生きたい。

地球がひっくり返ったって他人にはなれないのだから。それなら、本来の私を早々に受け入れて人生を全うしたい。

 

長々と書いてきたが、結局どんな私も私なのだ。

病気だろうが、道化を演じようが、私は私なのだ。

でも、そんなの自然じゃない。窮屈というか、ぎこちない。体ががんじがらめにされているような気分だった。自分で自分のことを縛っていた。"こうでなきゃいけない"と、自分に制約を課していたのだ。

つらかった。生きづらかった。

 

中学生の頃、『僕が僕であるために』も毎日聴いていた。

よく歌った。本当につらいときは歌詞を紙に書き写した。

本当の「私」がなんなのかもわからないくせにこの曲が好きだった。わからないからこそ好きだったのかもしれない。

自分とはなんなのかと、もがいていた。

あの頃は、今の自分を保つのに精一杯で、この曲のおかげでなんとか踏ん張れていた。

 

今も生きるのが時々つらい。

すごくつらくて、今こうやって自分のことを書いている。

 

書くと少し気持ちが落ち着く。どうしても文字に起こさないとダメで、頭の中がもやもやする。

 

こんなに長い話、本当は誰かに聞いてもらいたいけど、直接話すには長すぎるからここに書いてる。ずっと話したかったけど、今まで誰にも言えなかったもんなあ。

 

ここまで読んだあなたは物好きですね。どうもありがとう。うれしいです。

 

 

南の島

 

南の島に行きたい。

私は不満や閉塞感があると、南の島に行きたい病を発症する。

 

外に出て遊んでいる人をニュースで見ると、自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。私は何を我慢しているんだろう。家にこもって寝て起きて課題やって楽しくない。

 

だからといって外に出る気にはなれない。

私は家にいられるだけマシじゃないか。仕事で外に出なきゃいけない人がいるのだから。在宅万歳。ずっと家でいい。大学、休みにしてくれてありがとう。

 

でも南の島には行きたい。遊んで暮らしたい。常夏の国で朝からお酒を飲み、好きなだけパイナップルやメロンを食べ、海で背泳ぎしたい。日焼け止めなどいらない。シャワーを浴びたらしみるくらいの日焼けも、お土産の一つだ。

いっそのこと家の中にいながら南の島に行きたい。無理か。

 

実のところ、私は南の島が具体的にどのようなものか知らない。なぜなら行ったことがないからだ。

 

沖縄にも行ったことがない。高校の修学旅行で行くはずだったのに、私は修学旅行を休んだ。私は首里城をこの目で見る機会を逃し、首里城はほどなくして焼失した。

「いつか沖縄に行って首里城を見たい」

高校時代の心残りだった。大人になったら叶えたいと思っていたのに。新婚旅行でもいい。友人と行く旅行でもいい。

燃え上がる炎が私の純朴な希望まで灰にした。

 

南の島の人だって、毎日遊んでいるというわけではない。南の島なら穏やかでゆったり生活できるだなんて、行ったことのない人が抱きがちな幻想である。南の島にものん気でいられない事情がたくさんある。当たり前だ。

しかし空想するのは自由だ。私が頭の中で思い描く南の島は、いつだってさくらももこが作り上げた南の島である。あるいは、南の島のハメハメハ大王という歌。

『まるちゃん、南の島へ行く』の巻↓

【前編】https://youtu.be/vrAVTyNDQZM

【後編】https://youtu.be/bfPvk2KuGRQ

 

訪れたことのない南の島に思いを馳せる…ところまでは楽しいのだが、現実から逃げられないことに気づいて切なくなり、勝手にセンチメンタルになってしまう。

暗い気持ちになってもいい。それでも南の島に行きたい。